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先鋭化する健康志向

受動喫煙の防止を目的とする改正健康増進法の全面施行まで、いよいよ1年を切りました。7月から学校や病院、行政機関などの公共施設が原則として敷地内禁煙となり、続いて全面施行される来年4月からは飲食店や一般の事業所などでの規制が始まります。

 勿論、これらの場所以外でも、多くの人が共通して利用する場所は原則として喫煙ブースを設置するか全面禁煙するかの選択を迫られることになります。

 さらに、昨年7月に制定された「東京都受動喫煙防止条例」によって、東京都では2020年オリンピック・パラリンピック東京大会に向けて、国の法律よりも要件が厳格化された規制が実施されます。

 原則として、従業員のいる飲食店は屋内禁煙では喫煙に対応するには専用の場所を設ける必要があり、対象となる都条例の規制対象となる飲食店は(国の法律を基準では全国の45%のところ)都内の84%の店舗に及ぶということです。

 愛煙家にとって、外でたばこを吸える場所は(もはや)ほとんどなくなったと言っても過言ではありませんが、その背景には、たばこを吸う人の数自体がこれまでに比べてずいぶん少なくなっているという現実もあるようです。

 厚生労働省の「平成29年国民健康・栄養調査」によると、平成元年に男性では過半の55.3%、女性で9.4%だった喫煙率は、平成29年には男性29.4%、女性7.2%にまで低下しています。JTの調査では、昭和41年のピーク時には男性の喫煙率は実に83.7%に達していたということですから、この半世紀で「禁煙派」は少数派から多数派に大きく拡大したと言えるでしょう。

 喫煙習慣ばかりでなく、受動喫煙が与える健康への悪影響はもはやしっかりしたエビデンスに基づくものとして認識されつつあり、生活習慣や文化としての「喫煙」を巡る環境は大きく変化しています。

 また、そうした中、たばこを世の中の「害毒」として徹底的に毛嫌いし、喫煙者を「人でなし」として糾弾する声も(ネット空間を中心に)日増しに大きくなっているような気がします。

 世界的な健康志向の高まりはあるにしても、極端な排除主義などのヒステリックな主張が広まる背景には、世界的に広がるグローバル化や多様化への反動としての他者への「非寛容」の存在が垣間見えるような気がして仕方がありません。

 「タバコ」を巡るこのような状況について、精神科医で作家の熊代亨(くましろ・とおる)氏が、総合オピニオンサイト「iRONNA」(2018.12.19)に、「喫煙者は不道徳な人間-極論ヘイトはなぜ先鋭化するのか」と題する論考を寄せています。

 昭和の終わりころまで日本社会はタバコの煙に覆われていた…熊代氏はこの論考にそう記しています。既にタバコの健康被害が知られ始めてはいたものの、それでもまだ、当時のタバコは青少年が憧れる大人の象徴であり、一つのカルチャーでもあったということです。

 確かに昭和の終わりころまで、新幹線や中距離電車には灰皿が供えられ街の至る所で喫煙者と紫煙を目にしてきました。私が初めて行った海外旅行の際にはジャンボジェットの中にも喫煙席があって、多くの愛煙家がたばこの煙を燻らせていたのを(今となっては驚きとともに)思い出します。

 オフイスはどこも煙で奥がかすんで見えないようでしたし、テレビドラマのなどでも(再放送などを見てもわかるように)吸殻を足でひねりつぶす喫煙シーンが問題になるようなことはありませんでした。

 しかし、分煙化が進んだことによって受動禁煙は大幅に減りました。大人の象徴としてタバコに憧れる青少年は今ではあまりいない。タバコの社会的位置付けは大きく変わり、喫煙行為と、喫煙者に対する世の中の視線は大きく変わったと熊代氏はこの論考で説明しています。

 さらに、そうした中で喫煙者に対するまなざしはいよいよ厳しくなり、「タバコで健康を損ねるのは自己責任」という以上の批判や非難を向ける人も見かけるようになったと氏は言います。意見が先鋭化しやすいインターネット上では「喫煙者は人間ではない」と言わんばかりの書き込みも見られ、それが結構な数の「いいね!」を集めているということです。

 なぜ、これほどまでに喫煙ヘイトが先鋭化しているのか。背景の第一としては、タバコの健康被害についての知識が広く知られたことが挙げられる。喫煙者は少数派となり、多数派の標的になりやすくなったと熊代氏は言います。

 また、SNSをはじめとするネットメディアで先鋭化したオピニオンが集まりやすくなったことも、喫煙ヘイトを際立たせる一因として見過ごせないというのが氏の認識です。

 世間では100人に1人しかいないような極端なオピニオンでもSNS上では仲間同士で群れ合い、そうした極論への同調者がたくさんいるかのように錯覚できてしまう。SNSには極端な意見の持ち主を先鋭化させやすく、それが世の中の少数派ではないと錯覚させる力があるということです。

 しかし、(根っこの問題として)なぜ、自己責任の範疇であったはずの他人の喫煙が、これほどまでに叩かれるようになったのかと言えば、分煙化が進み、喫煙者を喫煙コーナーに押し込めることができるようになったことがあるのではないかと熊代氏は見ています。

 価値観の多様化した現代社会において、良しあし(善・悪)をシンプルに論じられる問題は意外に少ない。そうした中で、「健康を促す行動選択は良いことであり、不健康をもたらす行動選択は悪いこと」という判断の基準はおおむね普遍的だと熊代氏は言います。

 あるものが絶対善として位置付けられる時代が来たということは、そうでないものが絶対悪とみなされる時代が来たということ。健康は道徳的で、不健康は不道徳なものと位置付けられることとなり、喫煙者のような輩は白い目で見られるようになったということです。

 そもそも「健康」という概念は、19世紀以来の医学生理学的な発展に伴って広まった科学的手法の産物であり、「健康意識」とは極めて近現代的な意識だと熊代氏は指摘しています。

 今、時代は健康志向の真っただ中にあり、「オーガニック」の名のもとに食品添加物や農薬、化学肥料などは(たとえそれが適正な使用範囲にあっても)目の敵にされています。勿論、そうした世の中の「標的」となっているのはタバコばかりでなく、アルコールや糖分、グルテンですら健康に悪いと遠ざける人が増えているのも事実です。

 そうした中、熊代氏は、健康に過ごしたい人が健康に過ごせるようになること自体は望ましいとしても、喫煙者が不道徳とみなされ、ひいては喫煙者に不道徳な人間という烙印を押されかねない社会は、果たして「望ましい」社会なのかとこの論考で疑問を呈しています。

 いろいろな嗜好の人がいて、お互いに気を遣いながら共存している社会。たばこ会社のコマーシャルビデオのように聞こえるかもしれませんが、人と人との間には確かにもう少し「大人」の関係があってもよいのではないかと考える私は少し甘いのでしょうか。